日本歴史地名大系 「熊本市」の解説 熊本市くまもとし 面積:一七一・七二平方キロ県の中西部に位置し、東に立田(たつだ)山、西に金峰(きんぼう)山、北からの京町(きようまち)台地・茶臼山(ちやうすやま)台地、西北部に花岡(はなおか)山がある。西南部は有明海に面する。南と西南部が開け、そこに白川・坪井(つぼい)川・井芹(いせり)川・加勢(かせ)川・緑川が流れ、いずれも有明海に注ぐ。北は飽託(ほうたく)郡北部(ほくぶ)町と菊池郡西合志(にしごうし)町、東は菊池郡菊陽(きくよう)町と上益城(かみましき)郡益城(ましき)町、北西は飽託郡河内(かわち)町、南西は飽託郡飽田(あきた)町、南は緑川を境に上益城郡嘉島(かしま)町に接する。気候は周囲を山で囲まれるので夏は高温多湿、冬は夜冷え込む。白川・緑川の氾濫で度々大洪水をうけ、有明海沿岸地域は潮害が甚大なため、その防止策として堤防や塘が作られ、市の周辺を取囲む。〔原始・古代〕現熊本市の平野部は先史時代は海であったといわれ、先土器時代の遺跡はかつての海岸線に沿って発見されている。西は池上(いけのうえ)町・谷尾崎(たにおざき)町・上高橋(かみたかはし)町、北は花園の柿原(はなぞののかきばる)と清水(しみず)町楡木(にれのき)、東は黒髪(くろかみ)・竜田町弓削(たつだまちゆげ)・戸島(としま)町に細石器・ナイフ形石器・サヌカイト・石刃が見いだされ、有明海近くと京町台の東西山麓、立田山の北と南面を中心とする。縄文早期では清水町楡木で押型文撚糸文土器が発見されている。中期では沼山津(ぬやまづ)貝塚で鐘崎式の土器がみられる。後期では江津(えづ)湖東の健軍の泉(けんぐんのいずみ)ヶ丘(おか)小学校敷地、また竜田町陳内(たつだまちじんない)、大江(おおえ)町渡鹿(とろく)の貝塚では鐘崎式土器が出土する。縄文時代の遺跡は西の有明海沿岸や坪井川河口地帯では、小島下(おしましも)町一帯、高橋(たかはし)町の坪井川・井芹川合流地点、その上流の池上町、中央では大江町渡鹿の丘陵部、立田山の西山麓、北部では清水町八景水谷(はけのみや)と楡木地域、東部では立田山東山麓と南麓、白川左岸では竜田町弓削と上南部(かみなべ)町地域、託麻原(たくまばる)台地の南山麓地、南部では江津湖の東岸部と御幸木部(みゆききべ)町の加勢川流域にみられる。弥生式文化の時代になると、さらに耕地を求めて低地や河川流域に住居が展開する。前期では御幸木部町の加勢川河底遺跡があり、田迎(たむかえ)町の遺跡から下伊田式土器が出土している。後期になると白川・坪井川・加勢川沿岸の小島的地域をはじめ、江津湖東岸、西部の旧白川河口地域にもみられる。特に京町台と立田山に囲まれる坪井川流域、花園の井芹川左岸一帯、出水(いずみ)・江津地域は三大中心地域で須玖式と黒髪式土器が出土する。黒髪式土器は黒髪の済々黌高校からの出土品をもって標式としている。これらの遺跡からは青銅製の銅鉾・銅戈も出土し、祭祀が行われ、集落の指導者が形成されつつあったことを物語る。また南部の加勢川に面した御幸西無田(みゆきにしむた)町の遺跡からは甕棺とともに計六個の石包丁が出土し、この時期にはのちの熊本平野といわれる沖積地帯も、しだいに耕地が形成されるようになった。 熊本市くまもとし 1991年2月1日:熊本市が飽託郡北部町・河内町・飽田町・天明町を編入⇒【北部町】熊本県:飽託郡⇒【河内町】熊本県:飽託郡⇒【飽田町】熊本県:飽託郡⇒【天明町】熊本県:飽託郡⇒【熊本市】熊本県 熊本市くまもとし 2010年3月23日:熊本市が鹿本郡植木町、下益城郡城南町を編入⇒【植木町】熊本県:鹿本郡⇒【熊本市】[変更地名]熊本県⇒【城南町】熊本県:下益城郡 熊本市くまもとし 2008年10月6日:熊本市が下益城郡富合町を編入⇒【熊本市】[変更地名]熊本県⇒【富合町】熊本県:下益城郡 熊本市くまもとし 2012年4月1日:熊本市が政令指定都市となる⇒【熊本市】[変更地名]熊本県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「熊本市」の意味・わかりやすい解説 熊本〔市〕くまもと 熊本県中部,熊本平野の中部に位置し,有明海に面する市。県庁所在地。県の政治,経済,文化,交通の中心で,中央の出先機関も多い。1889年市制。1921年春日町ほか 10町村,以後 1940年までに 8町村を編入。第2次世界大戦後は 1953年田迎村,御幸村,城山村,池上村,高橋村の 5村,1954年秋津村,1955年松尾村,1957年小島町と竜田村,1958年中島村,1970年託麻村,1991年北部町,河内町,飽田町,天明町の 4町をそれぞれ編入。1996年中核市に移行。2008年富合町,2010年城南町と植木町の 2町を編入。2012年政令指定都市に移行し,北区,中央区,西区,東区,南区の 5区を置いた。古くから肥後国の中心で,奈良時代には託麻(現出水),平安時代には飽田(現二本木)に国府が置かれた。室町時代には菊池一族の千葉城があり,慶長12(1607)年には加藤清正が熊本城を築き,そののち細川氏 54万石の城下町として発展。近代初頭には西南戦争で市街の大半を焼失。復興以後,第2次世界大戦末までは軍都,行政の町であった。市の基幹産業は商業で,就業人口の約 8割が第3次産業に従事している。工業は食品加工,製糸,農機具製造などの在来工業に加え,第2次世界大戦後はゴム,電機,機械工業などの大企業が進出。農業は熊本平野を控えて,米作のほか,スイカ,トマトなどの野菜や果樹,花卉の栽培が行なわれ,台地では酪農,沿岸部ではノリの養殖が行なわれる。市街地西方に金峰山の景勝地があり,熊本城跡(国指定特別史跡),水前寺成趣園(国指定名勝・史跡),熊本藩主細川家墓所(国指定史跡)などの観光地や,千金甲古墳,釜尾古墳,阿高・黒橋貝塚,御領貝塚,塚原古墳群(いずれも国指定史跡)などの史跡が多く,また,阿蘇,雲仙などの観光の基地でもある。北部に西南戦争の古戦場として有名な田原坂がある。スイゼンジノリ発生地,立田山ヤエクチナシ自生地,藤崎台のクスノキ群,下田のイチョウは国指定天然記念物。九州新幹線が通り,JR鹿児島本線と豊肥本線が分岐する。北東部を九州縦貫自動車道が走る。国道3号線,57号線,208号線,266号線,501号線が通る。一部は金峰山県立自然公園に属する。面積 390.32km2。人口 73万8865(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by